読み返してみたら、この読書記録が、結構便利だということで、ブログを再開するとする。
キリスト教徒の中にも、こんなに挑戦的な聖書の読み方をする人がいるのかと驚いた。とくにカトリックはすべて丸のみしているのだと思っていた。
ガラリアへ行け。ともに苦しめ。
以下引用
マルコは極めて個性的な福音書であり、原始キリスト教団の主流派を痛烈に批判しながら、イエスのように生きるべきことを懸命に呼び掛けている。
もちろんマリアは聖母でも処女でもない。
「悔い改めろ、神の国が近づいてきた」これは実に恐ろしいメッセージである。
イエスはいわゆる被差別民衆と呼ばれる人々の中に入り込んでいく。
イエスはいつも民衆に取り囲まれ民衆とともに生きていた。
一貫していわゆる「被差別民衆」と呼ばれる人々の立場に立ちつくしているのである。
正しい清らかな人間はイエスとは全く関係がないのだ。
「神の国は決しておまえ達なんぞが入れるようなものではないのだ。」
「何を食べたらよいのか、何を着たらよいのか、そんな心配はやめておけ!」
そして、その霊がイエスを荒野へと追いやり、サタンによる40日間の試練にあわせる。
押し寄せる群衆の中に紛れ込み、必死でイエスに接近し、後ろからその衣服に触れる。
この地上に生きる一人の人間としての私には罪を赦す権威があるのだ。
大切なのは「愛によって活動する信仰」だけである。イエスの生きざまに共鳴した人間が、イエスへの思いを胸に秘め、イエスのように生きていけばそれでよい。人間が自らの可能性を自由に追求して生きていけばそれでよい。「万人の奴隷」として他社に仕え他社を愛するように生きていけばそれでよいのである。
人間にできることは、いつ来るかもしれない最期の時に備えていることである。「目を覚ましていろ!」という呼びかけがここでも三度繰り返される。
復活は史実ではない!そうはっきりと宣言することこそが出発点である。
ガリラヤに行かなければイエスに会うことなど決してできないのだ。
そのガリラヤでイエスのように生きていくこと、そのような活動の中でこそイエスはまさしく復活するのである。
復活は過去の歴史的な出来事ではなく人間の将来の可能性である。
イエスを愛しイエスのように生きようとする人々の中でイエスは常に復活する。
イエスは常に復活しているのである。